秋水

秋水は日本が第二次世界大戦終戦間際に開発したロケット戦闘機である。Me163の資料を基に設計した局地戦闘機として生まれた。しかし実戦参加することなく、終戦を迎えた。
海軍における呼称はJ8M、陸軍における呼称はキ200で「秋水」は統一名称である。四式爆撃機「飛龍」を海軍の導入時は「靖国」と変えさせるような日本軍においては珍しい事象だといえる。

【開発】

秋水の開発開始は、1944年(昭和19)3月、日本にも情報が入っていた来るべき超重爆(B-29)の邀撃のため、日独軍事援助協定に基づいて行われた技術交換の1つであるドイツのロケット戦闘機Me163コメートの陸海軍協同国産化を決定したところに始まる。
その技術資料は同一の2つのものをドイツから時間差で渡され、1組は吉川春夫海軍技術中佐が呂501で、もう1組は厳谷英一海軍技術中佐が伊29でドイツから持ち帰ることになっていた。ところが呂501は大西洋で連合軍艦隊に捉まり撃沈されてしまって海の藻屑となり、伊29のみがインド洋経由で7月14日にシンガポールに到着した。
厳谷中佐はそこで手荷物として持ち込めるだけの書類を持って輸送機に乗り込み、19日、先立って日本の羽田空港に帰還した。その資料は早速海軍航空本部に送られ、国産化についての議論の的となった。ところでその伊29は26日にフィリピンのルソン海峡サブタン島南方12kmにて水上航行中にアメリカ潜水艦ソーフィッシュの雷撃を受け、沈没してしまった。1944年7月といえばまだレイテ沖海戦も発生しておらず、一応フィリピンは日本の手中にあった頃である。にもかかわらずここまで潜水艦をのさばらせているのだから、日本の対潜能力の低さを改めて認識させられる。
資料は持ち帰ったものの、ドイツから手渡されていたMe163の資料は手荷物として持ち帰った機体とエンジンの説明書・燃料の成分及び取扱法・比重表くらいなもので、常識的に考えれば国産化などとうてい無理なことだった。一説によればドイツからはその他の機械類などの資材も渡されていたというが、そのような事実は確認されていない。
しかし6月15日の北九州若松方面の爆撃から始まったB-29の襲来に対して有効な打撃を与えられない陸海軍はMe163国産化に大きな期待を寄せるようになっていた。資料を入手してからは横須賀の空技廠において陸海軍にメーカー関係者を加えたメンバーで毎日のように検討会が開かれており、その期待の大きさをうかがわせる。
ロケット戦闘機は高速を生かして一気に高高度まで駆け上り、護衛する戦闘機を一気に突破、二撃を加え高速離脱する。従来のレシプロエンジン機では迎撃高度まで上がる頃には既に爆撃機は爆撃を開始しているという状況にあったのだから、さぞかし魅力的なものに思えただろう。硫黄島が占領され戦闘機による護衛がつき、返り討ちにあうような状況になってからはその期待は弥が上にも膨らんだであろうことは想像に難しくない。
もちろんその資料の少なさや全く新しいロケットエンジンをいう機関を前にして国産化に異議を唱えるものも少なくは無かったが、結局のところ空技廠トップの一言で全ては決し、8月7日には三菱に対して試作機が発注されることになった。軍のトップとは良くも悪くも常に強いものである。
計画によれば1945年(昭和20年)の3月までに155機、9月に1300機、1946年(昭和21年)までに3600機という壮大な量産が行われることになっており、これをもってB-29に大打撃を与えようともくろんだ。もっとも当時の日本にはそのような大規模量産をするような能力はないし、運用する能力も無かった。当時の日本を謳歌していたペーパープランの骨頂といえる。

機体の開発は海軍が三菱重工名古屋航空機製作所で、エンジンの開発は陸軍が三菱重工名古屋発動機研究所にて担当することとなり、燃料関係は海軍第一燃料廠と民間の化学工場が担当することとなった。燃料に関しての詳細は【燃料】の項を参照していただきたい。
既にB-29による爆撃は始まっているため作業は急がれ、機体設計の提出期限は10月15日、エンジンの方は10月末までに2基を完成させるという凄まじい濃密スケジュールを命令され、担当の技術者たちは文字通り不眠不休の作業を強いられるようになった。
機体設計には高橋己治郎技師が主任につき、主翼及び尾翼に疋田徹郎・原田金次技師、胴体に楢原敏彦技師、武装に蝦名勇技師、降着装置に今井功・中村武技師、操縦系統に磯辺保文技師、電気関係に小佐弘技師がつき、一方エンジン関係は持田勇吉技師以下十数名がついて急ピッチで作業を進めた。
結果的に機体開発の方は1944年(昭和19年)11月に機体設計を完了し、12月には試作1号機の機体を完成させる(当然殻として完成しただけで、運用上の完成ではない)という驚異的な速さで完成した。僅か20ページあまりの説明書から4ヶ月という速さで完成にこぎつけたのだから驚きを禁じえない。

一方陸軍で「特呂二号(特殊ロケットの略)」、海軍で「KR-10(くすりロケットの略)」と命名されたエンジンの方はといえば、やはり機体開発に比べて難航しており、特にドイツからの資料が少なかったタービン駆動用のインペラなどは完全な独自設計となっていた。試作品は作られたものの、液の逆流や流れの不均衡が起こったために30kg/cm^2の規定圧力が実現できず、最終的にはこの分野の権威といわれていた九州大学工学部教授(当時)の葛西秦二郎氏に助力を仰ぎ、翌年1月になってなんとか必要な圧力を得ることが出来た。資料があった部品については試作発注から20日間の間に図面を引き終わり、燃焼室・調圧機器・ポンプ・動力・調量機器・噴射用機器・配管といった部品が完成していった。
だが1944年12月9日、名古屋はM8.0の大地震、俗に言う東海大地震に見舞われ各工場施設は大きな被害を受けた。さらにその6日後B-29による大規模空襲が行われエンジンを開発していた工場も工員264名死亡生産設備大破の損害を受け、事実上その機能を喪失してしまった。そこでエンジン設計班は横須賀の追浜海軍基地に移転することとなり、受け入れ時に多少陸軍から文句がついたものの開発はそこで続けられた。1945年(昭和20年)1月19日には初めて燃焼実験に成功、日本で初めてロケットエンジンの炎が出現した。もちろんこれだけで問題点なしというようには行かず、その後数々の不具合・故障が頻発し実用化できるような状態ではなかった。エンジンの開発はただでさえトラブルがつき物である。新動力となればなおさら、この遅れを責めるのは酷と言うものだろう。
4月、遂に横須賀も、硫黄島から発進したP-51などに空襲されるようになり、エンジン設計班はさらに長野県松本飛行場横の陸軍実験施設に移転した。一方数々の実験は、一技廠および三一ニ空整備分隊による実験場である、神奈川県山北で行われた。このように数々の障害に悩まされ続けていた特呂二号も6月末、遂に三分間の全力運転に成功した。とはいえ、まだまだ完成の域には達していない。特呂二号は結局のところこの後も完成はせず、増加試作の段階で終戦を迎える。
難航したとはいえあくまで「機体と比較して」の話であり全く新しい動力を11ヶ月で全力運転にまで持っていった技術陣の力はやはり驚くべきものである。

エンジンは山北と松本でそれぞれ1基ずつ製作され、早速7月4日には山北の方は秋水1号機(海軍用)の機体に、松本の方は7月3日に秋水2号機(陸軍用)に搭載された。その後テストを行ったところ、どうやら秋水1号機に搭載したエンジンのほうが調子が良いということで、7月7日の午後2時に初飛行することが決定された。
初飛行の舞台は追浜海軍飛行場。他にもっと広い厚木飛行場や木更津飛行場も検討されたが、万一の時には海に近いほうが良いだろうという理由で追浜に設定された。しかし木更津飛行場も海に面していることから、海に面していたという理由だけでは理由になっていない。発表された理由の他に一技廠が追浜にあったからという理由もあると思われる。パイロットは水上偵察機から転向して横須賀航空隊三一二空や霞空で、軽滑空機「秋草」や「重滑空機秋水」の操縦経験を持つベテラン犬塚豊彦大尉である。

7月7日、秋水1号機は燃料を3分の1搭載した状態で飛行場に引き出された。燃料3分の1というのは新動力だから慎重にという配慮からである。結果論から言えばこの慎重さが裏目に出て惨事に繋がってしまうのだが、当時の人々がそれを知るはずも無かった。だが実際に機体を扱っている人々は燃料を少なくするとまずいというのは分かっていたはずで、これもまたトップの一言で決まってしまったのではないかと思われる。
朝から快晴で初飛行には申し分の無い天気だったが、肝心のエンジンがうまく作動していなかった。起動までは上手くいくものの、スロットルを動かすと即停止という具合で結局飛行開始許可が出たのは予定飛行時刻を大幅に過ぎた5時になってしまっていた。
飛行許可が出ると犬塚大尉は、滑走路に出た後スロットルを3段目に入れて轟音と共に一気に加速した。離陸は上手くいき上昇角45度の急上昇を行った。ところが高度400mに差し掛かった辺りで突然「パーン」という音と共にエンジンが停止、機体は余力で500mまで上ったところで上昇を停止した。直ちに犬塚大尉は二度エンジン再起動を試みるも起動せず、甲液を非常投棄しながら右旋回を行いさらに右旋回した。
事前の打ち合わせでは、非常時には海に不時着水してもいいという達しが出ていたが、貴重な機体を失いたくないという思いからか飛行場に戻ろうとした。しかし燃料が少ないためいくらか増しといえども、何せ最大翼面荷重218kg/uの機体である。沈下率は大きく滑走路手前にたっていた物置小屋の屋根に右主翼が引っかかってしまった。機体は高速で激しく横滑りしながら地面に接触し、滑った後停止した。
幸い機体はほぼ原型を留めていたものの、燃料漏れ対策として直ちに待機していた消防車が放水を行い、それと同時にコクピットから犬塚大尉を救出、すぐに地下壕に作られた病室に運ばれた。しかし犬塚大尉は意識朦朧・頭蓋低骨折の重体で、翌日8日未明に殉職した。日本初のロケット飛行は僅か2〜3分のうちに最悪の結果で幕を閉じたのである。
8日に事故調査委員会が発足しエンジン停止の原因究明に乗り出した。空技廠が撮影した16mmフィルムと墜落した機体、見ていた関係者などから調べ、結論はすぐに出た。1つは燃料タンクの燃料取り入れ口が前方下部についていたため、もう1つは燃料を3分の1しかいれてなかったことだった。急角度で上昇中に燃料が後部へ移動してしまい、燃料取り入れ口が空気を吸ってしまったことがエンジン停止の原因であった。燃料タンク設計に対しては委員会上で三菱設計陣が厳しく追及されることになる。また周囲に民家や建造物がある狭い追浜飛行場を選んだこともパイロット殉職の原因となったともいえるだろう。この委員会は312空の柴田司令が燃料を3分の1しか積まなかったことと追浜飛行場を選んだのは自分の責任だと宣言したことで解散となった。

三菱は陸海軍関係者との協議の結果燃料取り込み口に改良を加えることを決定し、まずタンク自体の構造を少し変えて燃料タンク内の燃料が一気に後方へ移動しないようにし、さらに燃料取り込み口自体も上下左右に動くようにした。この改修機の飛行は、3号機を使用した海軍が8月2日、2号機の陸軍が8月10日に予定された。しかしエンジンが不調であまつさえ7月15日には燃料ポンプの爆発による整備分隊長正田大尉殉死という大事故まで起こしてしまい、そうこうしているうちに8月15日がやってきて終戦となり、秋水計画は幕を下ろした。

この基本型秋水の他にエンジンに補助燃焼室を設けて航続距離を伸ばしたキ202「秋水改」を陸軍が計画し(Me163Cと同様の改修)、一方海軍は武装を30mm機関砲1門に減らした上で燃料搭載量を増加かつカタパルト発進可能としたJ8M2を計画していたが、もちろん全て書類上の存在で終わった。

前述のように陸海軍は自らの力と不均衡なほどの壮大な量産計画をたてていたが敗戦の時点で完成していた機体は5機、完成間近なものが10機で、エンジンに至っては2基しか完成していなかった。とはいえ終戦間近の日本がロケットという全く新しい動力で飛ぶ機体を僅か1年未満で初飛行に漕ぎつけたのは、くどいようだが驚くべきことである。

なお想定されていた具体的な秋水の運用方法であるが、ロケットエンジンでB-29の上まで3分半で駆け上り反転、この時点で燃料タンクはほぼ半分を消費している。護衛の戦闘機が対応できないうちに、高速滑空状態でB-29に機銃を叩き込み、速度を保ったまま離脱する。そして残りの燃料で反転して二撃目を叩き込んで離脱する。あとはグライダーの要領で、というよりもグライダーそのものなのだが、基地に帰還する。しかしドイツのMe163がそうであったように、基地に帰還する直前の秋水はただのグライダーの上低速なので、敵戦闘機にカモにされたであろうことは疑いようが無い。また極めて戦闘行動半径が短いために、ほとんど基地上空のような位置にいる敵で無いと叩けないのも弱点といえる。

前述の壮大な量産計画は主契約の三菱はもちろんのこと、日本飛行機富岡・山形工場や日産輸送機鳥取工場、富士飛行機などとも話がつき既に量産に入っていた。エンジン生産も三菱松本・枇杷島工場、海軍広工廠、陸軍兵器本部、ワシノ精機、新潟鉄工所、京都機械製作所などに話をつけていた。この短期間に、まだ実用段階にも入っていない機体に関してこれだけ根回しするのも気合が入っている証拠だと思われる。どうやら軍は本気で3600機量産計画を実行するつもりだったようだ。
しかし陸海軍は機体と新動力には気を使っているものの、燃料のほうには目が行かず、どうやって大量生産し、どうやって維持管理するのかを全くといって良いほど考えていなかった。なので仮に計画通りの大量生産ができたところでそれをきちんと使えたかどうかは甚だ疑問である。
というよりもかのドイツでさえまともに運用できなかったロケット戦闘機を終戦間際の日本ごときがまともに使えるはずが無いというのが正直なところである。しかしP-51などの戦闘機による分厚い護衛を突破し、帰還時にカモられるにせよB-29に一撃を加えることが可能だったのもまた本機のみであるのも間違いない。まさに皮肉としか言いようが無い。

【運用準備】

機体とエンジンを開発している間に陸海軍は秋水を運用する部隊整備も行っていた。
海軍では1945年(昭和20年)2月、エンジン燃焼実験成功の知らせを聞くと共に最初の部隊を編成した。横須賀航空隊百里原派遣隊を吸収・発展させ、他部隊の人員と機材を引き抜いて発足した312空である。司令官は柴田武雄大佐で霞ヶ浦飛行場で秋水に似せたグライダー「秋草」を使って訓練を行っていた。他に秋水からエンジンと燃料タンクと兵装をとりはずした機体「秋水重滑空機」も使用している。
陸軍では1944年(昭和19年)12月に秋水実験・訓練担当部隊として「特兵隊」を発足、柏飛行場でその実験を行い、実戦部隊のほうは二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)を配備している飛行第70戦隊を1945年(昭和20年)7月頃に機種改編を行う予定であった。

「秋水重滑空機」は海軍に1機、「秋草」は海軍に2機陸軍に1機が導入された時点で終戦となった。「秋草」は秋水と寸法・外形がほぼ同じの木製羽布張りのグライダーで、設計は海軍第一技術廠で行われた。安定性・操縦性ともに良好となかなか好評の機体だった。但しやはり着陸には相当な衝撃がかかったそうである。地方の木製機製造が可能な中小企業で一定数の量産が行われる予定になっていた。

【機体構造】

秋水はロケットエンジンを使用するという従来の戦闘機とは全く違う思想から、実に特異な形状をしている。全翼式とまでは行かないが強い後退角を持った胴体と比較して巨大な主翼を持ち、水平尾翼はついていない。水平尾翼の代用は主翼の補助翼が果たす。機体自体は大変小柄で自重は1.5tほどしかなかったが大量の燃料を必要とするために燃料を満載し弾薬も積むと3.9tと2倍以上、翼面荷重218kg/uこの重量の変化の度合いも当時の単座戦闘機としては桁外れのものだった。しかもその膨大な燃料は3分で使い切り、後はとにかく滑空し帰還は胴体着陸が前提…と何から何まで異例の戦闘機であった。

胴体は全ジュラルミン製で高速と巨大なGに耐える為に最も多い部分では20本の縦通材、14本の肋材を使用し、厚さ1.2mm〜1.5mmの外板を張っている。参考までに記しておけば、零式艦上戦闘機の外板は0.5mmである。
胴体内部は全く余裕の無いぎゅうぎゅう詰めの配置になっており、まず機首に無線一式、その後方にコクピット、コクピットの両脇に93L計186Lの燃料タンク、そのすぐ横に30mm機銃、コクピットの後ろに963Lという巨大な甲液用燃料タンク、そしてその燃料タンクの上部をへこませて無理やり作り出した隙間に30mm機銃弾を搭載している。なお乙液用タンクは主翼内に搭載している。963L燃料タンクの後方にロケットエンジンを配置し9番肋材にエンジンを固定、他は強度を高めるために支材を張り巡らす、以上が前部胴体の構造である。9番肋材の450mm後ろにある10番肋材が前部胴体と後部胴体の連結部となっており、エンジンの整備・点検・着脱などはここを取り外すことで行われていた。なお後部胴体自体はほとんどをロケットエンジンに裂くためそれ以外のものはほぼ積んでいないと考えていい。
さて、前述のようにぎゅうぎゅう詰めに設計した前部胴体には通常の引き込み式降着装置を設置するスペースは無かった。しかし固定式ではせっかくのスピードに悪影響が出る。そこでMe163と同様に油圧で作動する橇を設置した。離陸時は専用のタイヤを付け、飛行中はタイヤを投棄し、着陸時には橇を展開して胴体着陸する。
本場ドイツのMe163においては機首部は鋼鉄で作られて爆撃機の機関銃からパイロットや機材を守る防弾版となっていたが、あいにく日本の工業技術が追いついておらず鋼板の成形が不可能であった。よってこの部分はジュラルミン製となっている。またMe163は胴部分に小型のプロペラをつけてそれで発電を行っていたのだが、日本では「そんなもの作る手間があったらさっさと量産しろ」ということで無線用蓄電池で全てをまかなうことになっていた。無線機自体もMe163に比べて性能が悪いくせに大きい三式空一号を使用し、その大きさ問題を解決するために機首を20cm延長、無線は送信装置をつけずに受話器のみとなった。実にお粗末な話である。しかもこの「受話器だけ」にしたせいで今度は重量が軽くなり重心が後退してしまった為に120kgの錘を積むというその場しのぎの感が拭えない処置がとられた。
キャノピーは5枚の曲面ガラスをフレームで止めるという従来の戦闘機と同じ方式が取られた。一方のMe163は一体成形のガラスを使用している。これもまた日本の技術の限界がそうさせたのである。余談だがこのフレームのおかげでMe163との識別は簡単である。

主翼は何故か全木製である。おそらくは地方工場でも材料調達・加工・生産が容易ということで全木製が採用されたのだろうが、従来の戦闘機よりも遥かに高速で高Gのかかる本機にしてはなんとも違和感のあるものである。この主翼の材質が吉と出たか凶と出たかはテスト飛行が高度400mで終了したため未だに謎である。

ともかく全木製の主翼は23度の後退角をもちいかにも高速機という印象を与える。5式30mm機銃搭載のためMe163に比べ翼幅は18cm増えて9.5mになっている。翼弦長の25%の位置に主桁を、修正舵・補助翼といった各動翼前方に補助桁を設置している。さらにこれに19本のリブを通すことで秋水の主翼は構成される。これらの骨組みは積層材や強化木で作られ外皮に合板、その上に羽布を張ることで表面を平坦にした。また前縁には5.7度の捻り下げが施され固定スロットが設けられている。
補助翼が水平尾翼の代わりも務めており上に22度、下に27度動くようになっており、その内側には離着陸用のフラップを下ろした際に縦の振動が起きないように安定させるフラップがついていた。このフラップだけは、外皮にジュラルミンが使用されていた。

この主翼付け根に五式三十粍固定機銃一型(5式30mm機銃)が搭載されている。Me163においても30mmが使用されていたが、当時の日本には信頼できる機銃は20mmクラスまでしかなかった。しかし相手はランカスターやモスキートはおろかB-17さえも凌駕する防御性を持つB-29である。20mmでは威力不足と見た陸海軍と設計陣が、例え信頼性にやや問題があろうとも30mm機銃搭載を決めたのだった。当然五式30mm機銃はMk.108機銃よりも大きいために従来の主翼の大きさでは収まりきれず、前述のように翼幅を延長している。
30mm機銃のすぐ横から主翼全体の7分の3くらいまでの主翼前半分は、乙液用の燃料タンクになっており、主翼前縁の燃料タンクは68L、真ん中辺りの燃料タンクが200Lで、それが左右両主翼にあるため合計536Lが搭載される。
ちなみに主翼に加え垂直尾翼も全木製合板張りで、方向舵の外皮が羽布張りとなっている。

【エンジン】

秋水最大の特徴が新動力、すなわちロケットエンジンである。特異な機体構造もこの付録に過ぎない。
機構は複雑なジェットエンジンに比べ遥かに簡単、レシプロエンジンに比べると遥かに小型、そしてとてつもない大推力を生み出す。もちろん一度燃焼を始めると制御が難しく、燃料を大量に消費し、燃料自体が危険という欠点はあるが、簡単で小型で大推力というメリットはそれを打ち消して余りあるものであった。まさに日本が欲していた決戦兵器にふさわしい動力だったといえるだろう。あの状態の日本が何が何でも実用化しようとしたのも納得の行く話である。

さて、秋水に搭載された陸軍呼称「特呂二号」海軍呼称「KR-10」(以降特呂二号で統一)であるが、ごく大きく部品を分けると、燃焼室・蒸気発生装置・燃料圧送用ポンプ・燃料調量装置・調圧装置となる。
起動するとまずモーターが作動しポンプを動かし、分岐されて蒸気発生装置に毎分7Lのペースで甲液を送り出す。蒸気発生装置に送り出された甲液はそこで触媒に接触、化学反応を起こし水蒸気と気体酸素になる。水蒸気は先ほどのポンプに送られてポンプを動かす動力となり、甲乙両液をそれぞれの調量装置へと送り出す。この際に水蒸気が多すぎると燃料の過剰供給に陥ってしまうために甲液ポンプと蒸気発生装置の間には調圧装置が備えられている。
甲乙液双方はそれぞれ調量装置を通り、一定の比率で燃焼室に送られるように調整される。特呂二号においては甲液10に対し乙液3.6が最適とされたため、この比率になるように調整されたものと思われる。
調量装置で両液は、スロットルを3段階に分けるために細分化し(1段目は甲液2本乙液1本、2段目で甲液6本乙液2本、3段目で全パイプが開放される)、甲液は12本のパイプに、乙液は6本のパイプに分割され燃焼室へ。パイプ先端に付けられた0.2〜0.3mm程度の噴射機から霧状になった燃料を噴射する。
花瓶状になった燃焼室の中で両液が接触すると極めて激しい化学反応が起こり爆発、高温高圧の燃焼ガスは球状になっている燃焼室の中でさらに圧力を高められ、ガスは出口を求めて一気にノズルから噴出する。これがフルスロットル状態では1500kgという当時としては桁外れの推力を生み出し、また最大888km/hの速度と高度1万mまで3分半の驚異的性能を生み出すのである。
なお燃焼室は極めて高温になるために二重壁構造になっていて、冷却のために外壁を絶えず乙液の一部が循環することになっていた。

なお当時の三菱設計技師がエンジンの構造と各主要部品の構造を解説した資料17枚が現存している。文は手書きで図も煩雑だが、特呂二号を研究する上で極めて貴重な資料である。
全長 約2,500mm
全幅 約900mm
全高 約600mm
重量 180kg
最大推力 1,500kg
最小推力 100kg
比推力 180kg/薬液1kg/s
タービン回転数 14,500rpm

【兵装】

前述の通り、Me163は主翼にMk108 30mm機銃2門を搭載していたが、当時の日本には満足の行くレベルの機銃は20mmクラスしかなかった。だが相手がB-29なので20mmでは威力不足と見て、五式三十粍固定機銃一型(5式30mm機銃)が搭載された。両者に共通するのは大口径機関砲を、少ない搭載弾数(Me163で200発、秋水で100発)で運用することで、これはロケット戦闘機という性質上、ただ一回の攻撃チャンスに大火力を叩き込み一撃離脱することに徹したからである。

五式三十粍固定機銃一型は、大型機撃墜を目的とし、戦闘機に搭載することを前提にしてできうる限りコンパクトにまとめる様に設計された国産機銃である。
1942年(昭和17年)3月に空技支廠に対し大口径機銃研究についての照会があった。この際に25mm、30mm、40mmといった様々な口径の機銃が新開発の候補に挙げられ、8月の要求性能決定までに何回もこれに関する会議が設けられた。
それまでの間に6月には30mmにすることが決定して一枝支廠で銃身と弾薬包の設計・試作が行われ、要求性能が出る前から一枝支廠援助のもと日本特殊鋼株式会社に十七試30mm機銃の名で設計と試作を開始させた。8月に要求性能が決定して届き、それをもとに開発を進め1943年(昭和18年)7月に試作1号が完成した。1944年(昭和19年)には基礎地上試験を全て修了し、同社による増加試作銃を使用しての空中発射・耐寒試験などが1945年(昭和20年)3月まで行われ、同年5月に正式採用となった。
全長2218mm、重量80kg、初速750m/s、発射速度350発/mで弾薬は重量350g、炸薬量37g。ここから分かるように発射速度が他の同口径機銃に比べ低い。Me163に搭載されたMk108は全長105cm、重量60kg、発射速度600発/mとさらにコンパクトではあるが初速は400〜500m/sと拳銃弾並、使用する弾丸も30x90RBの短いものである。同じ30mmなのにも関わらずMe163搭載弾数が多いのはこのためである。ドイツの初速の捨て方はもう開き直った感さえし、その開き直りゆえその他の性能は満足のいくものになっているし、信頼性もそこそこある。しかし5式30mm機銃は従来の性能のままでコンパクトにしようとしたためにどうしても皺寄せがあり、それが信頼性低下(特に給弾機構)に繋がった。だが30mmの大口径は当ればB-29相手にも大きな破壊力を発揮できたのは間違いないだろう。事実月光に搭載した本銃での撃墜記録もある。
量産型銃は全試験が終わる前から既に生産されており、量産1号の完成は1944年(昭和19年)12月である。これらは日本製鋼所横浜工場と豊川海軍工廠で主に生産されている。肝心の日本特殊鋼株式会社はと言えば、爆撃で工場が破壊され、増加試作を作ったところで脱落していた。最終的には2000門強の5式30mm機銃が生産されたものと見られている。
零式艦上戦闘機後継である烈風に搭載されていたのが、この銃の最も有名なところであるが、他にも夜間戦闘機月光に個人で搭載し戦果をあげ、テスト中だったものや予定だったもの、個人で搭載したものまで含めれば雷電・天雷・銀河・彩雲・震電・電光など日本海軍最後の飛行機らに搭載されている。しかし小さなスペースに機構を押し込んだために給弾機構などに無理があって決して信頼性は高くなかった。

が、問題は機銃本体よりむしろ照準機のほうである。ロケット戦闘機は今までに無い高速で接敵するために従来の戦闘機の照準機では対応できないのである。実際にMe163が実用化された1944年(昭和19年)、Me163は従来の戦闘機と同じRevi16Bを搭載していたが、これが全く対応できていないということで撃っても当らないというのがほとんどだった。せっかくの30mmも当らなければ意味が無い。Me163が微々たる戦果しか挙げられなかったのには機体や運用の難しさ意外にもこのような機材面の問題という背景もあった。
ドイツでさえこうだったのだから、まともな光学照準機も独自開発できなかった日本では言わずもがな、である。

【燃料】

ロケットエンジンを動かす燃料は従来のガソリンのようなものではなく、触れるだけで激しい化学反応を引き起こす劇薬であった。
ドイツでは「T液・C液」と呼ばれていた薬液は日本では「甲液・乙液」と名を改めた。この成分はドイツから持ち帰った資料の中にあったためにそこまで研究は必要なかった。
甲液は15℃で比重1.36、過酸化水素水[MNO2]80%に安定剤としてオキシキノリンやピロ燐酸ソーダなどを20%を混合したもので、主に燃焼用の酸素を供給する目的で使用される。ただし前述のようにニトログリセリンのように爆発しやすく、また劇薬である。
乙液はメタノール[CH3OH]57%、水化ヒドラジン[N2H4H2O]30%、水[H2O]13%、それに銅シアン化カリ[KCu(CN)3]を混合したもの。燃焼される側の薬品である。甲液と混合することで凄まじい爆発を引き起こす。

特に甲液(T液)がとんでもない薬品で、無色透明で有機物に触れると極めて激しい化学反応を起こし、もちろん人体もその例外ではなかった。少量付いたくらいなら火傷くらいですみ洗い流せば何とかなるが、大量に浴びてしまえば、文字通り「溶解」してしまうほどのものである。保存も難しくガラス容器もしくは錫張りの容器以外は不適、下手すれば爆発。冷暗場所で保管するのが望ましいというもの。仮にゴミや虫が入ってしまえば大爆発を起こして大惨事を引き起こす。爆発すれば辺りに反応しなかった液を撒き散らすためにニトログリセリンよりもたちが悪い。
対して乙液(C液)は甲液ほどでないにしろ実質五十歩百歩の劇薬で極めて強い腐食性を持ち人体に有毒なのは変わりない。僅かな黄濁色で保存はガラスかエナメルもしくは電解皮膜処理を施した金属でなければできなかった。なんとも物騒な話である。

なおエンジンの項で出た蒸気発生装置の触媒は二酸化マンガン[MNO2]・過マンガン酸カリ[KMnO4]・苛性ソーダなどをセメントで約8mm角の六面体に練り固めたものである。

しかし開発の項にも書いたように、日本軍においては前述のようにこれらが極めて危険な劇薬なのにもかかわらず、機体やエンジンの大量生産ばかりに気をとられ燃料の保存・運用施設への配慮が欠けていた。そのため仮に機体とエンジンが早々に完成し、大量生産され部隊も編成されたところでまともに運用できたかどうかは大変怪しいところである。

なお甲液製造には電気分解に用いる電力と電極の白金を大量に必要とする。当時の日本にはどちらも明らかに不足しており、白金などは献納運動までしなくてはならないという始末だった。錫や金だらいはともかく、白金のような貴金属まで国家に提出したがる人がいるとは思えないので徴収することになっただろうが、ともかくも不足していた。軍は月に3000tの甲液を調達する予定だった。仮にこれが達成されれば、月に1919機の秋水がフル装備で1回ずつ飛べる計算になる。が、このような状況では精々月に100tという算出がされている。これだと僅かに63機の秋水が1回ずつということになる。つまるところ、やはり機体とエンジンが早々に完成し、大量生産され部隊も編成されたところで、その大半が地上で破壊されるのを待つのみという状況になったのは間違いない。


なお現在プレーンズオブフェイム航空博物館に、戦後米軍に接収された秋水が現存し、展示されている。その他国内にも、秋水が日本飛行機杉田工場の土中から掘り出され、永らく岐阜基地に放置されていたが平成9年に三菱に引渡され、13年に復元が完了し現在三菱重工の小牧南工場史料室に展示されている。

性能諸元

名称 秋水 Me163(参考)
製造 三菱重工 メッサーシュミット
主任務 対重爆邀撃 対重爆邀撃
全長 6.05m 5.85m
全幅 9.5m 9.4m
全高 2.7m 2.76m
主翼面積 17.73m2 18.5m2
垂直尾翼面積 1.03m2
方向舵面積 0.564m2
補助翼面積 0.65×2m2
乾燥重量 1,445.1kg 1,900kg
最大離陸重量 3,870kg 4,300kg
燃料搭載量 甲液1,149L・乙液536L
最高速度 888km/h(計算) 960km/h(急降下時には音速を超えることも)
実用上昇高度 約12,000m(計算) 12,100m
エンジン 特呂二号(KR-10)ロケットエンジン 推力1500kg ワルター HWK503A-1/2 推力1700kg
固定武装 五式三十粍固定機銃一型2門 Mk108 30mm機関砲2門
初飛行 1945年7月7日 1941年8月31日
乗員 1名 1名
生産数 15機(終戦による) 約400機

派生型

●J8M(キ200)「秋水」

基本型

●J8M2

海軍において武装を30mm機銃1門にし、カタパルトからの発進を可能にした型。計画のみ。

●キ202「秋水改」

エンジンに補助燃焼室を設けて航続距離を伸ばした機体。計画のみ。

●重滑空機「秋水」

秋水からエンジンと燃料タンクと兵装をとりはずした機体。訓練用。初飛行は1945年(昭和20年)1月8日、天山に曳航されて。

●「秋草」

秋水と寸法・外形がほぼ同じの木製羽布張りのグライダー。訓練用。
初飛行は1944年(昭和19年)12月26日、天山に曳航されて。

配備国

●日本

J8M 15機
計画では昭和21年3月までに3600機

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